Mag-log in月曜日の午後。
皇グループ本社の会議室には、前回より厚い資料が並んでいた。
東栄都市開発との二度目の協議。
今回は先方から、追加費用の内訳だけでなく、直近の借入状況や資金計画の一部も提出されている。
「前回ご指摘いただいた点を踏まえ、開示可能な範囲で資料を整理しました」
御影直哉が説明する。
帝人は数ページめくったところで手を止めた。
「資金不足は認めるんだな」
「当初想定より厳しい状況であることは否定しません。ただし、事業継続が不可能な状態ではありません」
「言い方を変えるな。俺が聞いているのは、追加負担なしで契約を履行できるかどうかだ」
直哉は一拍置いた。
「現行条件のままでは難しいと判断しています」
「なら前回より話は早い」
東栄側の専務がわずかに身を乗り出す。
「ですから、御社にも一定の負担を――」
「まだそこへ戻るのか」
帝人の声が
その日の仕事が終わりかけた頃。 私は翌日の予定を整理しながら、帝人さんへ最後の確認をしていた。「明日は九時から役員会です。資料は全部揃ってます。午後の予定も変更ありませんから、今日はこれ以上増やさないでくださいね」「増やすつもりはない」「最近は信用できるようになってきました」「最初から信用しろ」「実績が必要です」 帝人さんが何か言いたそうな顔をしたけれど、反論はしなかった。 その代わり。「小春。このあと時間はあるか?」「ありますけど、何か仕事ですか?」「違う。買い物に付き合ってほしい」 珍しい言葉だった。 帝人さんと買い物へ行ったこと自体はある。 でも、「付き合ってほしい」と向こうから頼まれるのは珍しい。「何を買うんです?」「母上への贈り物だ」「ああ」 それなら納得だ。「お誕生日ですか?」「いや。少し前に母上が欲しいと言っていたものがあった気がするんだが、何だったか思い出せない」「それ、私が行っても分からなくないですか?」「小春なら母上が好きそうなものを選べるだろう」「息子が考えてくださいよ」「だから考えている。その補助を頼んでいる」 仕事みたいに言わないでほしい。 ◇◇◇◇ 会社を出たあと、私たちは百貨店へ向かった。 帝人さんは最初から迷いなく婦人雑貨のフロアへ行く。「何か候補はあるんですか?」「スカーフかバッグか、アクセサリー」「幅広いですね」「母上は大抵のものを自分で買う。だから必要なものを贈ろうとすると、ほぼ全部持っている」「御曹司のお母様らしい悩みですね」「俺もそう思う」 帝人さんは真面目な顔で店内を見る。 ただ。 五分経っても何も手に取らない。「帝人
翌日の昼前。 私は帝人さんの執務室で、午後の予定を確認していた。「十三時から経営企画との打ち合わせ、十四時半から海外事業部です。十六時の会議は資料がまだ揃っていないので、開始を三十分遅らせました。それと、榊原さんから昨日の確認事項が――」「小春」「はい?」「今朝もパンだったのか?」 私は予定表から顔を上げた。「……何の話ですか?」「朝食だ。昨日、定食屋で小春が普段何を食べているのか俺は知らないと言っただろう」「それを翌日から調べ始めるんですか?」「調べているわけじゃない。今朝、出社してすぐ紅茶を飲んでいたから、朝もそっちなのかと思っただけだ」 そう言われて、自分のカップを見る。「平日はパンが多いです。今日はトーストでした。紅茶も家で飲んできましたけど」「やっぱりか」「何が『やっぱり』なんです?」「小春は朝から米をしっかり食べるタイプには見えなかった」「偏見です」「違ったか?」「……だいたい合ってますけど」「なら観察としては間違っていない」 帝人さんは満足そうに書類へ戻った。 私は少しだけ呆れる。「帝人さん、今仕事中ですよ」「分かっている。だから一つしか聞いていない」「数を管理してるんですか?」「昼休みならもう少し聞ける」「まだあるんだ……」「嫌ならやめる」 すぐにそう返されると、それはそれで困る。「嫌とは言ってません。ただ、尋問みたいにしないでくださいね」「尋問するつもりはない。俺も答える」「帝人さんも?」「一方的に聞くだけでは会話にならないだろう」 そこまで言って、本当に仕事へ戻った。 どうやら。 本気で「私のことをもっと知る」という昨日の話を続けるつもりらしい。 ◇◇◇◇
東都アセットとの案件がひと区切りついた翌日。 珍しく、午後六時を少し過ぎたところで帝人さんの予定がすべて終わった。 追加の打ち合わせもない。 急ぎの決裁もない。 榊原さんから回ってきた確認事項も、今日はもう片づいている。「……終わりましたね」 私は予定表を見直した。「何がだ」「今日の仕事です。帝人さん、もう帰れますよ」 帝人さんがパソコンから顔を上げる。「まだ六時だぞ。以前なら、この時間からでも一件くらい予定を入れていた」「それをやめてもらうために、私と榊原さんがどれだけ苦労したと思ってるんですか」「分かっている。だから今日は入れていないだろう」「自分で言うと台無しですよ」 以前なら、ここから何か仕事を探し始めたかもしれない。 でも最近は、必要のない仕事までわざわざ増やすことは減った。 会議を減らしたこともそうだし、榊原さんや他の担当者へ任せる範囲も少しずつ広がっている。 その変化を本人がどこまで自覚しているかは分からないけれど。「では、今日はここまでにしましょう。明日の最初は九時半からです」「分かった。小春も帰る準備をしろ」「言われなくてもします」 私は自分の机へ戻り、片づけを始めた。 その時。「小春」「はい?」「夕食に行かないか。今日はこのまま帰るより、少し外で食べてから帰りたい」 いつもの帝人さんなら「夕食に行くぞ」で終わりそうなところを、今日は珍しくちゃんと理由までついてきた。「……それ、予定に入ってました?」「入っていない。今決めた」「ですよね」「嫌なら断っていい。ただ、昨日まで東都の件でずっと仕事の話ばかりだったから、今日は別の話をしたいと思った」 そう言われると、余計に断りづらい。 嫌ではない。 むしろ。 最近
東都アセットから修正案が届いたのは、それから一週間後だった。 三年後の稼働率九十二%という数字は消えている。 代わりに最初のページへ大きく書かれていたのは、この施設を今後どんな場所にするのかという方針だった。 一階は、今ある日常利用を基盤として維持する。 二階以上は店舗数を無理に埋めることを優先せず、周辺住民や子育て世代が目的を持って訪れる区画へ再構成する。 既存店舗についても、営業年数ではなく、来館動機や施設全体への効果、継続可能な条件を含めて個別に判断する。「かなり変わりましたね」「ああ。少なくとも、前より何をしたいのかは分かる」 帝人さんは修正案をめくりながら答えた。 想定稼働率は、三年後八十七%。 最初より下がっている。 でも、私は前の九十二%よりずっと現実的に感じた。「数字が下がったのに、こっちの方が良く見えます」「前の数字は全部うまくいく前提だったからな。今回は撤退する店舗も、誘致できない区画も最初から織り込んでいる」 帝人さんが収支計画を指す。「その代わり、上階の一部を無理に細かく区切らず、用途変更する案が入った。稼働率だけなら下がるが、投資額と維持費まで含めれば利益はこっちの方が安定する」「空いてる場所を全部お店で埋めなくてもいいんですね」「ああ。必要なのは区画を埋めることじゃない。施設全体を使われる状態にすることだ」 私は別のページを見る。 和菓子店は継続候補になっていた。 ただし、単純な賃料優遇ではない。 一定期間の賃料条件を調整し、その代わりに催事や地域向け企画への参加を組み込む案になっている。 一方で、長く営業していた婦人服店については、契約満了を前提に別業態を誘致する方針だった。「ちゃんと分けましたね」「小春が気にしていたところか」「はい。『昔からある店』で一括りになってないなって」 残すものと変えるもの。
現地視察から数日後。 東都アセットとの打ち合わせが、もう一度開かれた。 今回は前回より人数が少ない。 宮坂さんと事業責任者、それから現地運営会社の担当者。こちらも帝人さんと私、それに必要な担当者だけだった。 机の上には、現地視察後に追加された資料が並んでいる。 階ごとの来館傾向。 年代別の利用状況。 既存テナントの継続意向。 撤退理由。 周辺競合との比較。 数字は増えた。 でも。 帝人さんは資料を開いてしばらくしたあと、最初にこう言った。「三年後九十二%という目標は、一度捨てる」 東都側の空気が止まった。 事業責任者がすぐに口を開く。「目標値そのものを、ですか?」「ああ。数字が悪いと言っているわけじゃない。置き方が逆だと言っている」 帝人さんは資料の一枚を手前へ引いた。「今の計画は、三年後に稼働率九十二%まで戻すという結論が先にある。そのために既存客を維持し、若年層を呼び戻し、既存店舗も残し、新規テナントも入れることになっている。だが現地を見た限り、その全部を同時に取れる前提には無理がある」 誰も口を挟まない。 帝人さんはそのまま続けた。「一階は日常利用で機能している。上階は目的がなければ人が上がらない。若年層は施設全体から完全に消えているわけではなく、一階だけ使って帰る客もいる。既存店舗についても、残してほしいという声がある店ほど、再開発後の条件では残れない可能性がある。一方で、長く営業しているだけで将来も残す理由があるとは限らない」 私は隣で聞きながら、数日前に現地で見た景色を思い出していた。 賑わう一階。 静かな二階。 空いた区画。 残してほしいと言われながら、賃料次第では撤退する店。 長く続いているのに、客がほとんど入らない店。 資料の中では一つの施設だったものが、実際にはいくつもの違う状態に分
アンケートで名前の挙がっていた店舗を見たあと、私たちは再び二階へ上がった。 ここには一階ほど「残してほしい」という声の多い店はない。 その代わり、開業当初から営業を続けている店舗がいくつか残っていた。「東都の資料だと、この辺も『施設の歴史を象徴する既存店舗』になってましたよね」「ああ。ただし、売上は弱い」 帝人さんが視線を向けた先には、婦人服を扱う小さな店がある。 商品はきれいに並べられ、店員さんもいる。 でも、客はいなかった。 私たちは少し離れた場所から様子を見る。 五分。 十分。 何人か店の前を通ったけれど、中へ入る人はいない。「たまたまですかね」「それを判断するには短すぎる。ただ、売上推移を見る限り一時的な話ではない」 帝人さんが持ってきた資料によれば、ここ数年は毎年少しずつ売上が落ちている。 それでも営業を続けられているのは、長期契約で賃料が低く抑えられているかららしい。「再開発後も残す候補に入っている」「長く営業してるから?」「東都の説明ではな。地域との継続性を示す店として残したいらしい」 私はもう一度店を見る。 長く続いてきたこと自体には意味があると思う。 ここで服を買った人もいるだろうし、店員さんと顔なじみになった人だっているかもしれない。 でも。 前の和菓子店とは、何かが違う。「帝人さん。ここ、残さなくてもいいんじゃないですか?」 帝人さんがこちらを見た。「理由は?」「今のところ、残してほしいって声が特に多いわけじゃないんですよね。売上も下がっていて、ここを目的に来る人も多くない。だったら、長くあるっていう理由だけで残す必要はない気がします」「人の思い出は?」「あると思います。でも、思い出があることと、これからも同じ店が必要なことは別じゃないですか?」 口にしてから。